2001・3・11 東日本大震災
その日、私は仙台市内の7階のオフィスにいました。
上席の、「みなさん、落ち着いてください。床の下に避難してください」
という、指示が出た。
隣の同僚と「床の下?」「机の下じゃない?」
いたって冷静だった。
今まで経験したことのない、大きな揺れだった。
下から突き上げるゆれ、右に左に大きく揺れ、まるで遊園地の船の乗り物に乗っているような変な感じだった。
机上のパソコン類はバタバタ倒れ、なかなか揺れは収まらず、このままこの建物が崩壊したら、
木と助からないかもと一瞬、死を予感した。
揺れが落ち着き、近くの避難所に指定されている小学校へ避難が始まった。
もちろん、電気は停電。
7階から階段で下まで降りた。
道路には、たくさんの人、人、人。
避難所へ向かう人だかりになっていた。
1時間余り、会社に戻り私物を取りに行き、現地解散となった。
電車もとまり、帰宅難民と化した。
仕方なく、日没までには帰らなければと歩いた。 とにかく歩いた。
途中、煙草屋のおばちゃんに被害状況を聞く。
しばらく、コンビニ等は、開かないだろうとたばこを多めに買った。
自宅に向かう中、大きな余震があった。
近くにいたオッチャンと話をした。
病院にいて、入浴中だったそうだ。
自宅に奥さんが一人いるので、心配で病院から家に向かっていると言った。
2時間近く歩いて、自宅に到着。
家族は全員無事だった。
長男が、割れた食器の片づけを済ませ、地震直後に近所のスーパーで水・カセットコンロのガス・ラップ・カップ
麺・お菓子類・ろうそく・電池と災害時に必要なものををたくさん買って用意していた。
機転の早さに、さすがは長男だと思った。
家族の安否を確認したので、日が暮れていたが、次女と二人で中学校へ行って見た。
中学校は、避難所の準備におおあらわ。
家族の安否もわからぬまま、先生方が半数残り避難所の手伝いをしていた。
何か手伝うことがないか、ききプールの水を運んだ。
屋上のタンクが壊れ、水が出ないのでトイレが使えないらしかった。
理科の実験で余った豆電球を電池とつなぎにわかの電灯を作る先生がいた。
廊下には大きなろうそく。
暗闇の中、どんどん非難する人々が訪れ1000人くらいになった。
いったん自宅に帰り、夕食の支度に入った。
お米は鍋で炊くことにした。
カセットコンロで火を使った。
反射板のストーブが、二個あったので、一つで湯を沸かした。
もう一つは、お味噌汁を温めた。
娘がリビングに布団を持ってきて、一階で寝ることにした。
〔テーマ:日記ジャンル:アフィリエイト〕